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本能寺で殺されるのは信長のはずではなかった! [本能寺の変]

明智光秀の末裔が主張「本能寺の変の標的は家康のはずだった」

「本能寺の変について定説となっているもののほとんどは創作です。

そのもととなっているのが事変の4カ月後に秀吉が書かせた『惟任退治記』(惟任・これとう=光秀)。
つまり秀吉にとって都合のいい公式発表で、これにより“逆賊・光秀”のイメージは決定づけられたわけです」

そう語るのは明智憲三郎氏(67)。明智氏の末裔である。

本業は歴史とは無関係のシステムエンジニアである彼が、

既存の学説にとらわれずSEの手法を取り入れ分析したところ、
思いもかけない結論に行きついたのだという。

光秀の出自は美濃を基盤として発展した土岐氏。
最盛期には美濃、尾張、伊勢を掌握するほど栄華を誇ったが、その後没落。

光秀はその一族の再興を悲願としていた。織田の家臣として、外様ではあっても大きな力を持つようになり、
土岐一族の再興が見えてきたが、信長の野望を知ったことで光秀の中に不安が生まれたという。

「その野望とは『唐入り』、中国の武力制圧です。
その構想は信長と交流のあったイエズス会のフロイスによる報告書にはっきりと示されている。
日本統一後、国内の領地は信長の息子たちに分け与えられ、
臣下の武将を国外制服に送り出す――それが実現されれば一族は国外で滅亡する、
と光秀が判断したのも当然でしょう」

加えて年齢も問題だった。光秀の享年は55というのが定説だが、
『当代記』(江戸初期の記録資料)によれば67だったとの記述が。

「嫡男はまだ若く、一族を率いる力はない。
自分が生きているうちに、なるべく早くに信長を止める必要があったのです。
これが謀反を起こした本当の理由です」

事変の最大の謎とされるのが、信長がなぜわずかな手勢だけで本能寺に宿泊したか、である。

ここにこそ事変の核心が潜んでいるのだと明智氏は言う。

「本能寺で討たれるはずだったのは、信長ではなく家康だった。
この直前、信長は家康を三河から安土に呼び出し、その後大坂を見物させています。
事変当日、信長は本能寺に家康を呼び出しており、そこで家康を討つつもりだった。

用心深い家康を本能寺に招き入れるためには自らの警護が手薄であり安心させる必要があったわけです。
そして家康を討つ予定だったのが、ほかならぬ光秀だったのです。光秀軍の生き残り兵の証言『本城惣右衛門覚書』には、信長の命で家康を討つと思っていた、という記述があります」

しかし、光秀が討ったのは家康ではなく信長だった。

「信長は事前にこの企みを光秀と打ち合わせていたはずです。しかしそれが仇となった。

信長はまさか光秀が裏切るとは思わなかったでしょうが、
光秀にとっては信長を襲撃する千載一遇のチャンス。

そして企てを確実に決行し、その後の同盟のためにも事前に家康にこの計画を話し、
綿密に調整をおこなっていた。
2人が事前に談合していることは複数の資料から読み解くことができます」

大河ドラマや教科書ではわからない、真実はここにあるのかもしれない。

FRASH8月12日号

センゴクにおける本能寺の変の経緯 [本能寺の変]

センゴク3巻における
本能寺の変に至るまでの明智光秀の胸中をまとめてみた。

~真の絶望は希を失うことに非ず
  一統ままならぬ 二者の自己があること~

上様(信長)も迷いの中にあるのでは

絶望の闇へ足を踏み入れようとしている。

上様にも二者の自己が共存しているのではないか

乱世の〝覇道〝を進む者と
〝王道〝による秩序を目指す者

上様は自分に愛執抱くものを恐れ
幾度となく殺めてきた。

上様は我(光秀)に愛執を抱くのを恐れ
我は上様の愛執を恐れた。

恐れを捨て愛執を以って
覇道と王道の狭間でもがく上様の絶望を救済すべし

覇道の先に何があるというのか
上様の唐入りという覇道を止めなければ―

我々の力と叡智にて王道による秩序を完成するのだ。

上様に依らず「天道」「人為」「歯車」
全て自己の中に一統することで答えを得た。

~上様の絶望を解き放ち かつ新しき秩序がために 我が天下の主とならん~

解説  〝センゴク〝での信長と光秀の胸中

信長は乱世の覇道を進み続けなければ
奮い立つことができないと。

だが信長は光秀と伴にすると
光秀に情が移り〝信長〝でいられぬとし光秀の
唐入りを拒んだ。

しかし一人では唐入りが果たせぬ信長は
唐土(もろこし)に覇道を求めた。

信長に二者(覇道,王道)の自己が存在すると考えた光秀は
覇道と王道の狭間でもがく信長の絶望を救済しようとし
覇道を止め王道による秩序を完成すると考えた。

覇道を止める―

それは信長にとって〝信長〝でいられなくなる。
即ち 死を意味することだった。














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本能寺の変 もうひとつの物語 [本能寺の変]

七夕ということで
織田信忠と松姫との悲恋のお話です。

信忠は織田信長の長男 松姫は武田信玄の六女

永禄11年(1568年) 武田家と織田家の同盟の為
信忠(11歳)松姫(7歳)で婚約が成立

松姫も他の姫と同様政略結婚の
対象となってしまいます。

しかし政略結婚にかかわらず書状のやりとりを
行っているうちに恋が芽生えたとされている。

しかし 元亀3年(1572年)武田家と織田家の
同盟破棄に伴い 信忠と松姫の婚約も破棄。
元々政略結婚なので普通はこれで終わってしまうが・・

信忠と松姫は違っていた。

翌年 天正元年(1573年)松姫 父 信玄 道半ばで死去
勝頼が当主となる。
その後 松姫は兄 仁科五郎盛信の居城 高遠城に移り住む。

当時 最強を誇っていた武田勢であったが
天正3年(1575年)長篠の戦いで敗北を喫すると
しだいに武田勢の勢力が弱まり

天正10年(1582年)2月 織田 徳川 などによる
甲州征伐が開始される。
織田軍の大将は 元婚約者 信忠

せまりくる織田軍に松姫はなに思う

仁科五郎盛信は
松姫を含む姫や従者を甲斐へ避難させる。

信忠は盛信に和睦を提案するが盛信は
拒否 決戦に。
3月2日 ついに高遠城 落城
松姫を避難させた 盛信自刃

高遠城を奪われた
勝頼は後退を余儀なくされ天目山へ・・
しかし3月11日 勝頼自刃 武田家滅亡
松姫も勝頼と共にしていたら天目山で
生涯を終えたことがあろう。

しかし松姫らは勝頼とは別行動で
残党狩りを逃れる為
東へ 東へ

武蔵国 八王子 上恩方 金照庵に落ち延びる
その後 信忠は松姫が生き延びていることを知り
信忠は松姫に〝迎えたい〝と使者を送るのでした。

松姫は信忠の元へ向かう
「ついに信忠様に会える」心弾ませていたであろう。

しかしその道中 6月2日 本能寺の変で
信忠自刃の知らせを受けついに会うことは叶わなかった。

信忠も 信長の天下統一が果たせず
松姫に会うことも叶わず 無念であったろう。

松姫はその後 心源院(八王子市)に出家
信松尼として
寺子屋で近所の子供たちに読み書きを教えたり
旧武田家臣の心の支えになったと言われ
地元民にも慕われてたとされています。

その後 信松院(八王子市)を開基 
元和2年(1616年)56歳 独身を貫き通し生涯を閉じる

信松尼の【信】は父 信玄を思ってのことか
それとも  会うことが叶わなかった信忠を思ってのことか

松姫 ゆかりの地

高遠城
長野県伊那市高遠町東高遠2295

心源院 松姫出家
東京都八王子市下恩方町1970

信松院 松姫墓所
東京都八王子市台町3-18-28

本能寺の変 に新事実! 「四国説」を裏付ける史料発見 [本能寺の変]

岡山市 林原美術館と岡山県立博物館によると

土佐の武将 長宗我部元親が四国の領土をめぐり
本能寺の変 以前 織田信長の命令に従う
意向を示した書状が見つかったことを
発表した。

美術館によると室町幕府の将軍 足利義輝
の側近 石谷家に関わる古文書
「石谷家文書」の中にあり 47点が
巻物になっていた。

書状は天正10年5月21日付け
元親が明智光秀の家臣 斉藤利三に
充てたもの など。

当時 長宗我部元親と織田信長は友好関係
にあったものの信長が方針を転換。
信長は元親に土佐以外の占領地からの
撤退を要求。

今回 斉藤利三が元親宛てに送った書状も
発見されており
天正10年1月11日付け
利三は「信長の要求に従うのが長宗我部家のためになる」
と 元親に助言

これに対して
元親は利三に
天正10年5月21日付
「阿波の国中心部 緒城からは退いたことを信長に伝えてほしい」
と返答し 信長の命令に従うことで信長との
武力衝突を回避しようしたことがはじめてわかった。

県立博物館によると
明智光秀の勢力は元親と関係が深く
恭順の意を示した元親を攻めようとする
信長を止めようとして本能寺の変に
つながった可能性があるという。

それにしても土佐以外の領地を手放せなければ
ならないほど信長は脅威だったということか。

本能寺の変については「光秀野望説」「怨恨説」
などあるが
光秀が信長の四国攻めを回避しようとする
「四国説」を裏付ける史料しとして
注目を集めそうだ。

書状は7月19日から 岡山市 林原美術館で公開
その後 高知県立歴史民俗史料館,岡山県立博物館でも
公開予定

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