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『戦国丸井 北千住の陣』8月7日(木)入場整理券配布について [イベント]

『戦国丸井 北千住の陣』について 初日 入場整理券配布をするという
お知らせが8月4日付けでありました。

以下 概要です。

【8月7日(木)初日、入場整理券配布のご連絡】

開催初日は大変混雑が予想されますので、
当日午前9時より北千住マルイ2Fエレベーター側入口より入場整理券を配布いたします。

※時間指定20分完全入れ替え制となります。
※整理券記載のお時間のみ有効です。
※混雑状況により、お時間通りに入場いただけない場合もございます。
※入場整理券の枚数には限りがございます。当日ご来店いただいても入場できない場合もございますので、予めご了承ください。
※入場整理券をお持ちでないお客様のご入場は固くお断りさせていただいております。
※入場整理券の再発行はいたしません。


また、今後の日程でも混雑状況により、整理券等配布させていただく場合がございます

『戦国無双4』に関する刀剣を展示するイベント“戦国無双の刀剣展”開催中 岡山県瀬戸内市 [イベント]

コーエーテクモゲームスのタクティカルアクションゲーム『戦国無双4』に関する刀剣を展示するイベント
“戦国無双の刀剣展”が、2014年7月12日から9月15日の期間、
備前長船刀剣博物館(岡山県瀬戸内市)にて開催されている。

 本刀剣展は、『戦国無双』10周年を記念して、瀬戸内市、瀬戸内市教育委員会、備前長船刀剣博物館、
全日本刀匠会事業部により開催されるもので、現代の刀匠たちが
『戦国無双4』に登場する武器をモチーフにして作成した十文字槍、鉄扇などの武具と、
現存する戦国武将ゆかりの刀剣、甲冑、陣羽織などを展示している。
 
 また、期間中に同会場では、本企画展示に関連した古式鍛錬の公開や、
戦国小柄小刀制作講座、甲冑着付け体験なども実施されている。

■“戦国無双の刀剣展”開催概要
日程:2014年7月12日~9月15日
会場:備前長船刀剣博物館(岡山県瀬戸内市)
入場料(税込):一般700 円、高大生 500円、小中学生 200円
内容:
 現代刀匠たちが制作した、『戦国無双』の武将が持つ武具9口に加え、
戦国大名ゆかりの刀剣、甲冑、火縄銃、弓矢、鎖鎌、忍者道具、鉄扇、
変わり兜、火事装束などの武器、武具など、『戦国武将』ゆかりの品を展覧できる。

◆『戦国無双』をモチーフに製作された武具一覧(武将、武具、製作者代表、先手の順に表記)
真田幸村:十文字槍、刀鍛冶赤松伸咲、刀鍛冶明珍宗裕他

前田慶次:単鉤型鉾、刀鍛冶三上貞直、刀鍛冶安藤広康他

大谷吉継:采配、鞘師石崎三郎

森蘭丸:大太刀、刀鍛冶藤安将平

石田三成:鉄扇、刀鍛冶石田國壽、刀鍛冶川崎晶平他

加藤清正:片鎌十&文字、槍刀鍛冶吉原國家、刀鍛冶満足弘次他

本多忠勝:蜻蛉切、刀鍛冶大野義光

真田信之:刀(直刀)、刀鍛冶川崎晶平

綾御前:大薙刀、刀鍛冶二十六代藤原兼房&刀鍛冶瀬戸吉廣、刀鍛冶田中貞徳他

◆関連イベント:
・古式鍛錬公開
実施日時:8月10日(日)、9月14日(日)各11:00~12:00、14:00~15:00の1時間ずつ
                    
・戦国小柄小刀制作講座
実施日時:8月16日(土)、9月6日(土) 各10:00~16:00

・日本刀初級者講座
実施日時:8月10日(日)11:00~12:00
  
・甲冑着付け体験
実施日時:8月24日(日)10:00~15:00
各10:00~15:00

※掲載時以前の日程は除外しています。

・戦国武将×刀匠 銘切プレート
販売日時:土、日、祝日のみ 各9:00~16:00
※予定は変更になる場合があります。
タグ:戦国無双
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本能寺で殺されるのは信長のはずではなかった! [本能寺の変]

明智光秀の末裔が主張「本能寺の変の標的は家康のはずだった」

「本能寺の変について定説となっているもののほとんどは創作です。

そのもととなっているのが事変の4カ月後に秀吉が書かせた『惟任退治記』(惟任・これとう=光秀)。
つまり秀吉にとって都合のいい公式発表で、これにより“逆賊・光秀”のイメージは決定づけられたわけです」

そう語るのは明智憲三郎氏(67)。明智氏の末裔である。

本業は歴史とは無関係のシステムエンジニアである彼が、

既存の学説にとらわれずSEの手法を取り入れ分析したところ、
思いもかけない結論に行きついたのだという。

光秀の出自は美濃を基盤として発展した土岐氏。
最盛期には美濃、尾張、伊勢を掌握するほど栄華を誇ったが、その後没落。

光秀はその一族の再興を悲願としていた。織田の家臣として、外様ではあっても大きな力を持つようになり、
土岐一族の再興が見えてきたが、信長の野望を知ったことで光秀の中に不安が生まれたという。

「その野望とは『唐入り』、中国の武力制圧です。
その構想は信長と交流のあったイエズス会のフロイスによる報告書にはっきりと示されている。
日本統一後、国内の領地は信長の息子たちに分け与えられ、
臣下の武将を国外制服に送り出す――それが実現されれば一族は国外で滅亡する、
と光秀が判断したのも当然でしょう」

加えて年齢も問題だった。光秀の享年は55というのが定説だが、
『当代記』(江戸初期の記録資料)によれば67だったとの記述が。

「嫡男はまだ若く、一族を率いる力はない。
自分が生きているうちに、なるべく早くに信長を止める必要があったのです。
これが謀反を起こした本当の理由です」

事変の最大の謎とされるのが、信長がなぜわずかな手勢だけで本能寺に宿泊したか、である。

ここにこそ事変の核心が潜んでいるのだと明智氏は言う。

「本能寺で討たれるはずだったのは、信長ではなく家康だった。
この直前、信長は家康を三河から安土に呼び出し、その後大坂を見物させています。
事変当日、信長は本能寺に家康を呼び出しており、そこで家康を討つつもりだった。

用心深い家康を本能寺に招き入れるためには自らの警護が手薄であり安心させる必要があったわけです。
そして家康を討つ予定だったのが、ほかならぬ光秀だったのです。光秀軍の生き残り兵の証言『本城惣右衛門覚書』には、信長の命で家康を討つと思っていた、という記述があります」

しかし、光秀が討ったのは家康ではなく信長だった。

「信長は事前にこの企みを光秀と打ち合わせていたはずです。しかしそれが仇となった。

信長はまさか光秀が裏切るとは思わなかったでしょうが、
光秀にとっては信長を襲撃する千載一遇のチャンス。

そして企てを確実に決行し、その後の同盟のためにも事前に家康にこの計画を話し、
綿密に調整をおこなっていた。
2人が事前に談合していることは複数の資料から読み解くことができます」

大河ドラマや教科書ではわからない、真実はここにあるのかもしれない。

FRASH8月12日号

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